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悪魔が来たりてデモ機を...

2018年01月24日 08:00

 備えあれば憂いなし、と昔からよく言われている。

 なので、インフルエンザシーズンの準備も流行前から早めに始めた。イナビルとタミフルを発注し、イナビルのデモ機や吸うと音が鳴る練習用の笛も取り寄せた。吸入動画が見られるiPadを感染室に準備する。

 笛は近所の医院にも大量にお届けし、小さいお子さんに対しては音が出せるのを確認してからイナビルが処方されることになった。

 薬局に送られてきたファーマトリビューンにも『6歳児・イナビルの処方』という記事があったので早速、薬剤師全員で回覧した。

 それでもやはり、現実はうまく行かないものだ。

 いや、むしろ「周到に準備をしておけば完璧な吸入指導ができるはず、などというのは薬剤師の思い上がりではないか?」とすら、最近の私は思うようになっているーー

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 その日、最初のイナビルの処方せんは、平成24年生まれの男の子。

 5歳か...、と心の中で警戒レベルが上がる。

 感染室には、椅子にちょこんと座った男の子と母親が待っていた。イナビルの操作はこちらでするので吸うだけでよいことをまず母親にお伝えし、お子さんにも「4回吸ったらおしまいね」と、やさしく説明してから吸入を始めた。

 ところが、1回目を吸入した途端。「にがいーっ!」吐き出しこそしなかったものの、ベーッと舌を出して泣きそうな表情になってしまった。

「お水、持ってきますね」紙コップに水を用意して飲んでもらうが、男の子は涙目で母親に訴える。

「にがいのやだ...もうかえる...」「ダメでしょ! あと3回吸わなきゃ!」去年と同じやり取りが、やっぱり今年も繰り返される。

 疑義照会でタミフルへの変更を依頼するか?だが既に1回は吸ってしまっているし、5日分飲ませる保護者の負担を考えると迷ってしまう。どこのメーカーさんでもいいから、貼付剤のインフルエンザ治療薬を開発してください!と心の中で叫んでも、誰にも届きはしない。もっとも、インフルエンザ治療薬の効果は、せいぜい解熱が1日程度早まるに過ぎないというのは分かっているのだが。

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 ーーなんとかして、ここは流れを変えていきたい...。

 「そうだ、ちょっといいものを見てもらおっかな〜?」ちょっとわざとらしいぐらいに明るい声を出し、iPadを立ち上げて動画を再生する。

『ぼく、イナビル! インフルエンザをやっつけるよ!』

 ピンクの兜をかぶった白いマシュマロみたいなかわいいキャラクターが画面に現れ、小さい子どもにも分かりやすい言葉遣いで、吸い込んだ薬が体内でウイルスと戦う様子をアニメで説明する。

「あっ! いま吸ったのが、こうやってやっつけてくれてるよ〜」興味を惹かれてじーっと画面を見つめる男の子に、そう語りかけてみる。

 動画が終わったところで、もう一度尋ねる。

「ね、ああやってやっつけてくれるんだって。あと3回だけど、吸ってみてくれるかな?」可愛いキャラクターの呼びかけが効いたのか、男の子は私の問いかけに黙ってうなづいた。途中で何度も水を飲みつつ、なんとか最後まで吸入することができた。やれやれである。

 帰り際にお母さんに、インフルエンザ罹患時の異常行動に対する注意を呼びかけるリーフレットを手渡し、「玄関や窓の施錠も確実に」と説明したが、「あっ、はい。わかりました〜」とあっさり受け取って帰っていった。以前と比べて、このような警告を聞かされても動揺する親御さんは少ない。最近は飛び降りなどによる不幸な事例があまり報道されていないせいだろうか。

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 途切れることなくイナビルの処方は続く。今度は6歳の女の子だ。またもや微妙なお年頃...と思いつつ感染室に入る。

 笛が鳴らせたからイナビルが処方されたはずではあるが、念のため、お母さんに確認してみる。

「病院ではうまく笛を鳴らせましたか?」

「はい、一応、鳴らせましたけど...」むむ。なんかちょっと歯切れの悪いお答え。

今度はお子さんの方に尋ねる。「さっき、病院で、ピーッ!って音は鳴ったかな?」

「?」お人形みたいにカクン?と小首をかしげる可愛い仕草に、私の警戒レベルがググッと上がる。

ーーこれは薬局へ来る前の間に、吸うのか吹くのかわかんなくなっちゃってるパターンじゃないのか?

「もう一回、練習してみよっか?」笛を渡すと、戸惑うことなく口にくわえてくれるけど、吹いてしまっているようで音が全然出ない。

「ちょっと! ○○ちゃん、さっきはちゃんと出来たじゃないの! ほら、吸って吸って!」お母さんが焦り始める。お子さんは「あれ?」という感じで、笛をくわえたまま再び小首をかしげる。

「あのね、ストローでジュースを飲むときみたいに、すーっ!ってやってみてくれる?」ファーマトリビューンの記事を思い出しながら、お子さんに説明してみる。

 ちょっと首をかしげていたが、なんとか「ピー」と、やや弱めの音が出た。

「あっ! うまいうまい! その調子! もう一回やってみて!」すかさず褒め、確実に吸えるよう繰り返し鳴らしてもらう。

「じゃあ今度は本番ね!」その感覚を忘れないうちに、と、急いでタッピングとスライド操作をしてお子さんに差し出す。粉を吹くこともなく、味を嫌がりもせず、素直に吸入してくれるお子さんを「あら上手!」「うまいうまい」と褒めちぎりながら4回の吸入を終えた。

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「わあ、本当に上手にできたね〜、えらかったですね〜」一時はどうなることかと思ったが...と胸を撫で下ろしながらイナビルの入っていたアルミ袋を捨てようと手に取ると、中に硬い手応えが。

 ーーん? なんか入ってる?

 ドキッとして、よく見ると、空袋かと思ったそれはまだ封が切られていない。

 ーーえっ!? なんで中身が入ってるの? だってさっき吸ってもらって...。

 手元にある、ついさっき吸入を終えたばかりの『それ』を見た私は、頭の中が真っ白になった。

 ーーやばい! これ、デモ機だ!!

 患者さんの前だというのに、私はがっくりとカウンターに突っ伏してしまうのを止めることができなかった。そりゃあデモ機だから吸おうが粉は吹かないし、味だってしないから、上手に吸えて当たり前じゃん...。

「すみません...申し訳ありません、これ、見本でした...」

 平謝りに謝って、今度こそ本物のイナビルを吸入してもらう。もしもこれで吸入失敗したら薬剤師として万死に値する...と思ったが、すんなり最後まで吸入することができた。ひょっとすると、デモ機を吸うことで慣れが生じて抵抗なく吸入できたのかもしれないが、そんなのは結果論だ。二度とあってはならない。

 お子さんとお母さんが帰っていった後、真っ先に私がしたことは、薬局じゅうの全部のデモ機ーーイナビルだけでなく、すべての吸入器と点鼻薬のデモ機に、赤の油性マジックでデカデカと『みほん』と書き込むことだった。

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【コラムコンセプト】
仕事に家事に育児と、目まぐるしい日々を送る母親薬剤師。新薬や疾病の勉強もしなきゃいけないが、家のことだっておろそかにできない。追い立てられるように慌ただしい毎日だ。そんな中で、ふと立ち止まり、考える。「働く母親って、どうしてこんなにいろんなものを抱え込んでしまっているんだろう?」「薬剤師の業務って、どうしてこんなふうなんだろう?」忙しさに紛れて気付けずにいる感情に気付いたら、働く母親に見える景色はきっといくらか変わるだろう。日常の業務に埋もれたままの何かを言葉にできたなら、薬剤師を取り巻く世界も少しずつ変えていけるだろうか。


【へたれ薬剤師Kiko プロフィール】Hetare_kiko_columm.png

卒後9年間病院勤務ののち、結婚を機に夫の地元で調剤薬局に転職。産休育休を経て、現在は中規模チェーン薬局にフルタイムで勤務。アラフォー。9歳の息子、夫(not薬剤師)と3人暮らし。食事は手抜き。洗濯は週3回。掃除はルンバにおまかせ。どういうわけだか「コトバ」に異様にこだわる。座右の銘は「モノも言いようで門松が立つ」。(Twitter:@hetareyakiko)

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