7月9日、月曜の朝
2018年07月12日 14:20
その日の早出は私1人だったので、出勤した時、薬局内は無人だった。
白衣に着替えてレセコンや分包機のスイッチを入れて回っていると、セロテープでレジに貼り付けられた走り書きのメモに気づいた。
「早出の方へ。開局時に自動ドアの張り紙をはがしておいてください」
開局時間には少し間があるが、忘れないうちにと思って、そっとロールカーテンを開け、自動ドアに貼ってある紙をはがす。張り紙には管理薬剤師のEさんの字で、こう書かれていた。
『特別警報発令のため本日は午前11時を持ちまして閉局いたしました。ご了承ください』
やっぱりそうなったか、と思いながら張り紙をゴミ箱に捨てる。

おとといの土曜日、私はちょうど仕事が休みだった。
金曜から大雨が続き、TVのアナウンサーは「数十年に一度の災害が発生する危険性がある。最大級の警戒を」と何度も繰り返していた。
だが、私の自宅も薬局も、川や山からはずっと遠いので、浸水や土砂崩れの被害を受ける恐れは少ないと思っていた。それでも、自然災害に「絶対安全」はないと思っていたので、警報や避難勧告が出ていないかは絶えず確認していたし、TVのデータ放送で河川水位情報もチェックしていた。
時折、スマホが大きなアラーム音を響かせて、隣の市や町に避難勧告や指示が出たことを知らせた。金曜の夜はずっとそんな状況だったので、万一に備えて枕元にスマホを置いて寝た。おかげで1〜2時間おきにアラームで起こされては、避難指示が出たのが自宅近辺ではないのを確認して寝る、というのを何回も繰り返した。
たった一晩でそんなに何度も避難指示が出ているということが、状況の重大さを如実にあらわしていた。
土曜と日曜は、食料品の買い出しに出た以外は家族と一緒に自宅で過ごした。
近所のスーパーは営業していたが、パンなど一部の商品は品薄だった。
TVはずっと災害報道で、河川の氾濫で広範囲に浸水した地域からボートやヘリコプターで救助される住民の様子が何回も映し出された。土砂崩れが各地で発生し、県内の高速道路も鉄道も完全に止まっている。
日中も、2回ほど避難情報のアラームが鳴ったが、やはり私の住む地域からは離れていた。土曜の朝いちばんで県外にある実家にメールをして被害がないことは伝えてあったし、夫の実家も無事だった。
日曜の昼過ぎに遠方の親戚が心配して電話をかけてきたので、「大丈夫」と伝えた。
直後に、息子が通う小学校からメールで「月曜日は休校になります」とお知らせが来た。早速、夫と明日のことを相談する。
「僕は急ぎの仕事がないから休めると思うから、子供とうちにいるよ」
「私は仕事に行かないと...」
「薬局、大丈夫?」
「たぶん大丈夫だと思うよ? 特に連絡もないし、あの辺に避難勧告も出てないし」
その頃にはもう雨も止んでいて、青い空まで見えていた。

実際、薬局には浸水や土砂崩れの被害は全くなく、いつもの時間に自動ドアのスイッチを入れて開局した。
FAXの受信トレイには、県薬からの通知が何枚も届いている。薬局の被災状況と開局可能かどうかをお知らせください、という内容の紙を見つけ、「被害なし」「平常通り開局」に丸をつけて即座に送信する。
そうこうするうちに、Eさんが出勤してきた。
「やっぱり、土曜は途中で閉めたんですね」
「うん。だって近くの◯◯医院も△△クリニックも臨時休診になっちゃったし、特別警報まで出たら、もうその時点で...」
Eさんが言いかけたところで、最初の患者さんが入ってきた。若い男性に付き添われた70代くらいの男性で、新患の方だった。初回アンケートを記入しようとして、患者さんが言った。
「家は××地区で、被災して、薬がもうないんじゃ。それで薬をもらいに病院まで孫に連れてきてもろうたんじゃ」
「えっ!」
××地区は、県内でも特に浸水被害がひどかった地域だ。思わずレセコン入力する手が止まる。だが、処方せんには保険証番号も医療機関名もきちんと記載されている。
ピッキングをしていたEさんが戻ってきて、横から処方せんを覗き込みながら男性に尋ねた。
「保険証はお持ちだったんですか?」
「財布と保険証と診察券はいつものバッグに入ってたんやけど、薬が持ち出せんで...」
それで通常通りの処方せんが発行されていたのだ。
ーーでも...。
入力を終え、監査する私にEさんが小声で告げた。
「お支払いは後日でもいいとお伝えしてください」
「わかりました」
投薬カウンターでお呼びすると、患者さんはスマホで電話中だった。知り合いに「無事に避難した」と伝えているのだろうか。代わりにお孫さんが薬を取りに来た。
「こっちが血圧で、こっちが血栓予防で、それから不整脈の薬...、ペン、貸してもらっていいですか?」
お貸ししたボールペンで薬袋と薬情に書き込みをしていく。
電話を終えてこちらへやってきた男性に、お孫さんが尋ねる。
「じいちゃん、お薬代、ある? 俺が出そうか?」
「あの...、もし、お手持ちが心細いようでしたら...」
申し出た私に、だが男性は領収書の金額を見て言った。
「いや、財布とカードはあるから、当分は大丈夫やろう。...ただ、お金が濡れてしもうとるから...」
差し出された紙幣は、確かにしっとりと湿っていた。

東北や熊本の震災や、各地の豪雨災害など、被災された方への対応について出された通知は、今までに何度も読んでいた。
だが、実際に被災した方に対応したのは、初めてだった。
『被災』という重い言葉を前にして、ただ頭を下げるばかりで、かける言葉が見つからなかった。お孫さんと一緒に男性が帰って行き、入れ違いに、近所に住む常連の患者さんがやってきた。そのあとも、処方せんを持って薬局に来たのは、被害も何もなくいつもの薬を取りに来る人々ばかりだった。
もともと、××地区と薬局はかなり離れていて、その辺りからやってくる患者さんは普段もいない。いつもと変わらない薬局で、忙しく調剤と患者さん対応に追われる。医薬品卸の配送の方も、普段通りに薬を届けに来てくれている。
けれど。
TVには、ずっと青いL字が画面端に映っていて、避難所や給水情報、災害ゴミの受け入れ、交通機関の運休状況などが絶え間なく流れている。こんなに長い間、L字に字幕が流れ続けているのは、東日本大震災以来ではないだろうか。JRは線路下の土砂や橋桁が流出し、複数の路線で運休が続いている。高校野球の県大会は、球場の1つが消防隊などの拠点になっているので、他の球場に試合を振り分けることになった。
道路が通行止めで、別の店舗では施設への配薬にかなりの遠回りをして行なっているらしい。
時折、上空から聞こえるヘリコプターの飛行音が、いつもよりずっと頻繁な気がする。ニュースを見るたびにテロップで表示される死者数は増え続けている。一方で、安否不明者の数はほとんど減っていないーー
息子の学校は火曜日に授業が再開したが、甚大な浸水被害を受けた地区の小中学校は今も休校が続いており、そのまま夏休みに入る予定だという。
今回の豪雨災害で亡くなられた方へのお悔やみを申し上げるとともに、被災された方々に心よりお見舞い申し上げます。

【コラムコンセプト】
仕事に家事に育児と、目まぐるしい日々を送る母親薬剤師。新薬や疾病の勉強もしなきゃいけないが、家のことだっておろそかにできない。追い立てられるように慌ただしい毎日だ。そんな中で、ふと立ち止まり、考える。「働く母親って、どうしてこんなにいろんなものを抱え込んでしまっているんだろう?」「薬剤師の業務って、どうしてこんなふうなんだろう?」忙しさに紛れて気付けずにいる感情に気付いたら、働く母親に見える景色はきっといくらか変わるだろう。日常の業務に埋もれたままの何かを言葉にできたなら、薬剤師を取り巻く世界も少しずつ変えていけるだろうか。
【へたれ薬剤師Kiko プロフィール】
卒後9年間病院勤務ののち、結婚を機に夫の地元で調剤薬局に転職。産休育休を経て、現在は中規模チェーン薬局にフルタイムで勤務。アラフォー。9歳の息子、夫(not薬剤師)と3人暮らし。食事は手抜き。洗濯は週3回。掃除はルンバにおまかせ。どういうわけだか「コトバ」に異様にこだわる。座右の銘は「モノも言いようで門松が立つ」。(Twitter:@hetareyakiko)